読書してきました。「ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)」という本です。
「ソクラテスの弁明」は哲学者ソクラテスが主役の作品です。みんな大好きソクラテス。とはいえ当時も好かれていたかどうか…。なんてったって死刑になってますからね!1。ナニワトモアレ、今では、ソクラテスと言えば(誰が言ったか)四大聖人の一人に数えられるほどの人物です2。
ソクラテスは死刑によってこの世を去ってしまうわけですが、「ソクラテスの弁明」は、その死刑が決まる裁判での、ソクラテスが弁明する様子を描いた作品です。なお、この作品は裁判の内容をそのまま描いたものではなく、訳者さん(もちろん専門の方ですが)の理解では、ソクラテスの裁判とその生と死を「哲学」として弁明するプラトンの創作であるとされているところには注意が必要です3。つまり、事実がどうであったかよりも、ソクラテス、そしてプラトンが伝えたかった哲学的意味を考えるのが安全な読み方と言えそうです。
軽めの感想
古代ギリシア全般にいえてしまうことですが、なんてったって2400年前の話、そしてその記録が残っているのがすごいことです(小並感4)。あたりまえでもここは確認しておきたいところ。それから長い長い哲学の暗黒時代を経て、古代ギリシアの哲学を承けた「近代哲学の父」と言われるデカルトが400年前。それを起点として考えても、科学の歴史はたった400年です。たしかに世界の見た目は大きく変わりました。しかし、本書からうかがえる古代ギリシアの人々の社会的な態度を現代と比較すると、人々の精神はどれだけ変わったのだろうか、果たして進歩しているといえるのだろうか、と、考えてしまいます。少なくとも、トップレベルでは、2400年という大昔にもそれだけの知者はいたわけですから…。
プラトンのほかの著作について
ところで原著の著者であるプラトンもまた活躍した人物であり、ソクラテスの弟子であり、アリストテレスの師という、重要な人物ですが、実践の人だったソクラテス5と違い、多くの著作を残しています。
プラトンの著作では、今回の「ソクラテスの弁明」は、Amazon Kindle Unlimitedの読み放題で利用しました。光文社古典新訳文庫には、(プラトンの著作も含めて)今も新刊が追加されているみたいですが、ほかのプラトンの著作では、まだ読んでいませんが、「饗宴」、「メノン」、「プロタゴラス」が同じくKindle Unlimitedの読み放題で利用可能です(2019年12月19日現在)。
プラトンの著作では「国家」(英題:「The Republic」は「国家」より狭い「共和国」という意味なので、そちらに近い内容だと思います。)があれば読んでみたかったのですが、こちらは、英語であればAmazonで無料で利用可能みたいです。6。
ほかの書籍と比べて良いと感じたところ
ほかの書籍と比べて良いと感じたところを挙げてみます。
内容について
ソクラテスは、お偉いさん方の知的驕りを暴く活動をしてきたことが原因で、半ば強引な罪状で起訴されました。それも実際にはソクラテス自身ではなく、教え子などソクラテスに倣った者がしてきたことへのヘイトを向けられた形だったようです。そんな無実の裁判においても、ソクラテスは私情に訴えかける(など、当時の裁判ではレトリック7を用いるのが当たり前だったらしいです。)のではなく純粋な方法8で論駁9しようとします。これが論理的でありながら、裁判員にもわかる、平易な言葉で表現されており、透き通った言論とは何かを考えさせられます10。
良質なテキスト
「ソクラテスの弁明」はソクラテスの言葉を、プラトンが描いたもの。もちろん本書も古典の名著です。それを現代の専門家が現代語で翻訳。さらに解説(本文と同じくらいの量!)がついています。もちろん出版社による校正もされている。その様式だけとってみても、下手な大学の講義よりよっぽどためになります。また、光文社古典新訳文庫の全般に言えることになってしまいますが、現代語なので読みやすく、とてもコスパが高いです。翻訳に解説を加える形式である以上、あくまでも原著をなぞる形であり、話題が離れないのもポイント高いです。
レビューしやすい
内容自体は、プラトンの著作なので、作者に気を使ったりせず、心置きなくレビューできます🤪
読書ノート
なんだかんだプラトンさんによる美化が入っていると思うので、ソクラテスの死を美化-英雄化しちゃってるところがあるかもしれないとは思っています。果たしてソクラテスは信念のもとに死んだのか、それともソクラテスですらもそうして生きるしかなかったのか。というわけであくまでもそういう部分は想像の世界という前提です。
無知の知とは何か
ソクラテスの活動は人々の無知を暴く活動であったので、ソクラテスの弁論でも無知の知11を正確に理解できているかどうかが、全体の理解に影響してきます。しかしこれをわかったというには少し注意が必要です。12。
とりあえず、ありがちな誤解釈から触れていきますと無知の知とは、「知らないことがあることを知っている」という意味ではありません!「世の中には知らないことがたくさんあるよねー、無知の知って言葉もあるし」なんて使い方はちょっと、いや全然違うよってことです。解説ではこれを不知として無知とは区別されています。
ややこしいので列挙してみました。言葉の定義はともかく、次の表のBが本題です。言葉って難しい。
A | 「自分の知らないことがあること」を知っている |
B | 「自分が本質的には無知であること」を知っている |
C | 「自分が知らないことは何か」を知っている |
D | 「『無知』とは何か」を知っている |
無知の知とは、「知らないのに知っていると思いこんでいることだ」、とあります。つまり無知の知とは、「何を知っているか」ではなく、「何をもって、知っているとするか」という、認知の基準に近い話です。
余裕があればここに例が欲しいですが、上手い例がみつかりませんでした(下手な例は誤解を生むだけなのでできません)。
そこで、「何をもって、知っているとするか」を突き詰めていくと、「究極的には、人は本当には何も知らない」ということになります。
私の解釈が正しければ、そのことを正しく認識している、謙虚な姿勢こそが、無知の知を備えている状態と言えるのです。これは科学の反証可能性にも通じる考え方ですよね。
だから偉そうにするんじゃねーよ!偉そうにできるやつなんていないんだよ!そいつは知ったふりをしている無知な野郎だ!って感じでしょうか13?
ソクラテスは偉そうな人をたくさん敵に回したわけですがソクラテス視点では他の人々はどのように見えていたのか。簡単に表にしてみました。
自覚している | 自覚していない | |
偉そうにする | 欺瞞? | 驕り高ぶり |
偉そうにしない | 一番マシ!14 | 迷える子羊? |
その活動の必要性?
ところで、ソクラテスは神託をうけた結果であれ、そうしろとまでは言われていないのに、人々に嫌われながらでも、なぜ最後まで人々を論破して周ったのでしょうか。あくまでも人々に気づかせて回る論破癖はソクラテス自身の理想があったのでしょうか?
プラトンは学園アカデメイアを作ってそこで哲学を発展させたわけです。それはある程度の同じ思想を持った人による閉じた世界です。最初期だからそのための人もいなかった、とも考えられますが、ソクラテスはあくまでも人々に直接働きかけ続けたという意味で、理想を追いかけた人なのかなと思います(今ある情報から考えて、さすがに、とんでもなく性格の悪いやつだったということはないでしょうから)。
告発への弁明(第11~15章)について
告発「ソクラテスは若者を堕落させている」に対して
「誰が善くするのか」→「他の全ての市民が若者を善くするならば、ソクラテスのみによって堕落させることなどできるはずがない」
→ソクラテスを告訴するにあたっての根拠の甘さを指摘。
告発「ソクラテスは『意図的』に若者を堕落させている」に対して
→「自分と一緒に過ごす人を意図的に悪くする人はいない。なぜなら、そうすることで自分自身が害悪を被ることになるからである」
→他に動機があれば悪くすることも考えられなくもないが、原則としてソクラテス側としては十分な主張ということという理解。これに対してメレトスには、「ソクラテスが『意図的』に若者を堕落させている」とする根拠が要るが、それがない。
神霊に関わることについてへの論駁について
本書の一三。
ソクラテスは、メレトス(告発者)の訴状を参照して「ポリス15が信じる神々を信じず、別の新奇な神霊のようなものを信じるように教えて」とあることに対して、「新奇な神々も、神々、あるいは神々の子供だと、私達は考えている」ことを確認することで、そもそもこの主張がが矛盾しているとしています。
ちょっと意図と意味がはっきりとわからないので、わからないなりの解釈の候補。
- ポリスの信仰的には、神々の集合がまあそんなふうに閉じている(=ポリスの信じる神々も、新奇な神霊もともに神々である)前提なので、みんな納得させられる、あるいは訴状の内容が拙いことを納得させられる形。
- ソクラテスが「信じているのは、ポリスの神々のみである」と主張したかっただけ(実はレトリックである?)
- 素朴な疑問:そもそもメレトスの主張では「ポリスが信じる神々」とは別の神々であるという「意味」であろうから、説得力がないのでは?
論駁の効果について
解説には、ソクラテスの意図はあくまで、「告発を行っているメレトス自身に十分な根拠がないこと、彼の主張が真面目に受け取られるべきではないこと、を示すことにあった。」とあります。
…が、解説にもあるように、これが裁判員に意図したとおりに伝わったかというと謎です。ソクラテスは裁判の在り方も問うているわけですから、裁判員に判断する道を示すことを第一の目的として考えていれば、そもそもこんな厳密な論駁よりも、何を基準に何を判断すべきかどうかをもっと明確に示すべきではなかったのか?と思ってしまいます。例えば、感情によるとはどういうことか、論理によるとはどういうことか。それを示しきっていないので、裁判員には何を基準にどう判断すべきかが伝わらず、結局ただのレトリック的な受け取り方をされてしまうだけ、ということになってしまったのではないでしょうか?
全体を通して、ソクラテスはあまりこれが裁判であるという文脈を理解していない、する気がないようにしか見えません😅。媚びずに、妥協もせずに、人々を目覚めさせる方法は本当になかったのでしょうか?逆に、相変わらず皮肉や挑発するようなことを言ってしまう始末です。弟子たちは絶句したか、はたまた、心の中で苦笑いでもしていたでしょうか。
作品としては、レトリックに頼ることなく、真実のみを伝え死を選ぶ、あるいは真実のみを伝えると殺されてしまう、という無情さみたいなもの、哲学的な意味を伝えるための創作的な都合の可能性もありますが、ソクラテスの振る舞いは完全に信念に従っているのみ!で笑ってしまいます。
刑の対案も有罪判決を受けて裁判員と向き合うことはしていないし16。弟子の心配もそっちのけです。まさに(最後の)独演会という感じです。
もちろん、ソクラテスが言っていることは正論ばかりなのですが、同時に理想論でもあるわけです。それを人々が理解できないから嫌われて裁判までしてるわけですから、それを人々が理解できる前提で論駁することは、理に反してはいないでしょうか?無理筋ではと思ってしまいます。
死刑になることで、真実を語っていることが証明されるか?
解説の(四)ソクラテスへの憎悪(電子書籍の61%)によると、この裁判でもソクラテスが「真実」を語り、その結果として死刑となることが、ソクラテスが「真実」を語っていることの証明となるといったことが書かれています。まず、ソクラテスがこれまでの活動で憎まれてきたこと、「真実を語る」=「無知を暴く」→憎まれるこの論理はわかります。しかし死刑とのつながりはどうでしょうか。たしかに、「真実を語る」=「無知を暴く」→死刑ということもありますが、例えば、「皮肉屋で生意気すぎたから」→死刑という可能性だってあります。もう少しかみ砕いた表現にしてみると、
ソクラテスは無実であり、それを示したのだから、それでもソクラテスが死刑になるならば、ソクラテスの語る真実を、裁判員が受け入れられなかったからである。こんな感じになりそうですが、この推論は、まあ個人的にもどちらかといえば妥当だとは思うのですが、他の色々な可能性を考えると、証明されるとまで言い切っても良いものなのか、疑問が残ります。
ロジックだけをみると、ソクラテスが真実だと思っていることを語る(=無知を暴く)と憎まれる、少なくとも、好かれはしない、ことが再確認されるだけではないでしょうか。
作品的には、ソクラテスが、あくまでもレトリックには頼らず、真実のみを語り続け、神あるいは哲学的信念のためには死をも恐れなかった、という形になっているのだとは思いますが。
死を怖れること-は無知の知の典型か?
と言いますのは、死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことにほかならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。
「死ぬのなんか怖くないし!」
そんな負け惜しみのようにも聞こえる言葉ですが、そのように解釈してしまうのは簡単なことなので、ひとまず置いておくべきでしょう。”真実”がそんな浅いところに落ちていると考えるべきではないでしょう。
「死をも恐れない」これもやはりソクラテスの純粋さを証明するために、必要であり、そうせざるを得ない、という側面が強いと思います。それにしても「死を恐れない」どころか、「殺せるものなら殺してみろ」と、やりすぎな感もありますが、ソクラテスが、論理的に主張する一方で、決して媚びることなく、逆に反感を買うような振る舞いをすればする、そうするほどに、裁判員の判断、が何によって行われているか、をよりはっきりと問う意味があるのだと思います。
つまり、裁判員が、ソクラテスの「殺せるものなら殺してみろ」という態度を理由に「じゃあ死ねよ」と言うならば、それは感情によるものになるということです。
それを自覚させるには、「判断をするのはあなたたちです」程度では甘いのです。なぜなら、その判断が感情によるものでないのであれば、「判断をするのはあなたたちです」でも「殺せるものなら殺してみろ」でも変わらないはずです。
真実を追及するならば、より程度の強い表現をすることで、裁判員それぞれが自分の中の真実に目を向けざるを得ない、「気に食わないからという理由でソクラテスを有罪にしようとしてはいないか?」と問うきっかけを与えようとする、そういう構造になっているのだと思います(届かなかったから死刑になってしまうのですが!)ソクラテスは有罪になったあとの刑の対案の提示をする場面でそれをよりはっきりと明らかにしようとします。
もっとも、ソクラテスの活動を認めるか、それとも死刑にするか、の二者択一にもみえる構図に持っていってるようにみえるところがありますがこれは、少し欲張りで、勝てるとしたらレトリックで勝ってしまったという形になってしまうようにもみえますが。
ソクラテスの皮肉屋的な振る舞いは、良い意味でいえば、こうした真実を明らかにするためには相性の良い構造を持ち合わせているのだろうと思います。
もちろん、ソクラテスが、本当に死を恐れていなかったのかどうかは誰にもわかりません。その理由も、「生よりももっと大切なことがある」という相対的なことなのか、この世の無常をよく理解していた上の「悟り」みたいなものなのか、本当に死を楽観視していたのか、最後の仕事として「死に場所に選んだ」だけなのか(このときソクラテスは70歳ですしね)、はたまたいつもと同じように単に死刑が極刑であることへの不思議を暴く活動をしていただけなのか。ソクラテス自身もいろいろな理由を述べていますが、本当の「気持ち」はどうだったのでしょうね。死の不可逆性を考えると、わざわざ死にたいとは考えないとは思うのですが。もちろん、これは楽しい想像の世界でしかありませんが。
ソクラテスは何がしたかったのか
ソクラテスは何がしたかったのか。相手を論破し裁判員を煽る、そんなことをしながらも500票中30表の差でギリギリ有罪になったのですが、(つまり、有罪に入った票がそのまま全て死刑に入らなければ死刑を免れることは十分にできるはずなのに、)そのあと、さらに反感を買うような振る舞いをして、その結果一度は無罪に入った票が反対に振れて、死刑になってしまう。
ここでソクラテスは信仰面での理由を多く述べているので、ぱっと見だと信仰を貫いただけのようにも見えますが、その本質は、ソクラテスが考える美徳にあるように思います。
一言でいえば、ソクラテスは、「ソクラテスを生かす票を、全て真実の票となるようにしたかった」のではないかと思います。そして、こうした「紛れを徹底的に排除する考え方」こそが、真実を求める、本書を通してもっとも大切な考え方なのではないかと思うのです。
それを考えるために、裁判員は、何を理由としたときに、ソクラテスを生かす票を入れるのかを考えてみます。
上述した通り、裁判員に、ソクラテスの真意が伝わっていれば、どれだけ煽っても、ソクラテスを死刑にする票にはならないはずなのです。(「裁判は感情によって左右されてはならない」、ということも含まれます)。ソクラテスが感情を煽れば煽るほど、不浄な票が排除され、それ17がはっきりとなります。
どうでしょう?ソクラテスは裁判に負けて死刑になりましたが、逆に、ソクラテスに入った票は全て、真実の票である、ソクラテスの信念が反映された票なのだと、それだけは間違いがないのだとすれば、どのような結果になっても清々しいような気がします。
それをどれだけ実現できたかはさておき、ソクラテスがこの裁判で求めた真実はそこにあったのではないでしょうか。裁判後にソクラテスがそれぞれの投票者に向けた言葉がそれをよく表していると思います。(一方を友人・正義の人、他方を非難して罵る。曖昧な裁判ではこんな区別はできないし、しても負け惜しみ以外の何ものでもない。ところがこれがそうはならないのは、ソクラテスが意図して真実の票とそれ以外をわけたから。)
もっとも、全ての市民にそれを求めるのはなかなか難しいのが現実です。当人たちが、どれだけ上手く相手を論駁できたとしても、相手あるいは聴衆がそれを詭弁と区別できなければ、納得する方法は、結局、「どちらを信じるか」、しか無いようなものになります。ソクラテスは、それも排除した結果、死んでしまいました。
逆に、このようにでも考えなければ、信仰や性格でしか説明できないことが増えてしまい、作品全体を通してみたときに、どちらかといえば哲学的よりも信仰の話に近づいて行ってしまうように思います。
最後の言葉について
最後の言葉はどういう意味だったのでしょうか。
(有罪の票を入れた人に対して)私があなた方を苦しめたその同じこと18で彼らを苦しめて、仕返し19をしてください。もし彼らが、徳よりも前に金銭やその他のものに配慮を向けていると皆さんに思われたなら。
これは、ソクラテスを死刑たらしめた人たちに「ソクラテスの代わりをしろ」と言っているようなもので、結構無理のある注文です。できるのであればきっと死刑に票入れてない🤣。
少し緩めた意味にすると、ソクラテスの弟子がソクラテスの哲学から足を踏み外していたら、それを指摘して「ほしい」と。「自分(たち)で言ったことを自分で守っていない」と。
この「お願い」が、裁判が終わった後であるのが徹底しています。もちろん、真実を求める者としては、当然ではあると思います。自分の命がかかっている状態では、どうしても、自己弁護の意味を含んでしまいますから。(例えば、仲間への思いやりが、生かしてあげたい理由になる、という人もいると思います。ソクラテスはそういう感情が「生かす票」に紛れないようにしたのだと思います。)
美徳の為に死んだ ソクラテス
ソクラテスは、最後まで理想に生き、死んでしまいました。もしソクラテスが現実的≒分析的でもあれば結末は違ったかもしれません。ですが理想に生きたそれゆえに、真実を求める者の、最も重要な思考スタイルを確立できたのではないか、とも思います。描かれるその徹底した姿は、もはや「概念」にも見えます。ソクラテスは概念。
最後の疑問
ところでソクラテスは、自身の無知の知への認知の無知さについてはどのように捉えていたのでしょうか?ソクラテスの活動そのものはあまり謙虚ではありませんよね。もちろん自覚していたが、人への謙虚さは不要と考えていたということでしょうか。その後生まれた学園システムは、その意味でも、より謙虚な真実の探求の仕方であったように思えます。
雑感
一通りレビューしようと思うと大変ですね。こんな調子でレビューを続けるのは難しそうです😅。書き慣れていないのも大きいとは思いますが。書き終わるまでに時間が経ってしまって、すでに書いてあったことそのものではなく、そのイメージをもとに書いてしまってます、たぶん。とにかく、今回の読書で私が学んだことは以上のような感じです。
本書の内容をもう一度まとめて考えてみると、手法について言えば、使われている論理は興味深いですが、主題について言えば、無知の知=謙虚さ、についての哲学的な話だと解釈しています。もちろん謙虚さとは、知への愛と、知への謙虚な姿勢のことです。
それを踏まえて考えると、この記事も書評などと言ってしまうと、”わかったつもり”の態度で書くものになってしまうわけです。そうするとどうしても、わかっているものについてだけ述べることになってしまいがちです。
ソクラテスが求めたのは知識そのものではなく、知への謙虚な姿勢です。だからこの記事は書評とかの形にはしませんでいした。よくわからないとこともそのまま書けるるように。
たしかに、知の探求の一つの姿である科学的な態度という意味では、断定しておくことで、責任を持ったり、むしろ反論する人がわかりやすくなる、という効果が期待できます。だからこそ間違ったことでもはっきり言うのが大事という考え方もあると思います。しかしこれは半匿名空間では難しいところもあります。それに、認知の正確な表現ではありませんし。
ネットやブログにおいては、そういった自己認知も含めて、そのまま書けることのほうが大切ではないかと思います。不確実なことは書きづらいよなあと思いながら書いていますが、それでは人が本当に考えていることとのギャップは広がるばかりです。
本当は、専門家であっても、知見を提供するのが必要な態度であって、答え(正しいこと)を与えるスタンスは必要ないのではないかとさえ思います。
ソクラテスなら、ネットでも自分はただのソクラテスだと言って、暴れまわってくれるんでしょうね。なんて、考えてみたり。
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