小論文が書けない人生だった

思索
思索(4)
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小学校では作文、中学校からは小論文を習ったと思う。思い返せば作文もうまく書けなかった。でも小論文はそれ以上だった。一文字も書けないのだ。今でこそ思うことだけど私は小論文というものを勘違いしていたと思う。

小論文は、作文に毛が生えた程度のもの?

小論文は小さい論文ではない。どちらかといえば主張のある作文だろう。作文には条件がほとんどない。

だから作文を書け、とだけいうと文章を書けというのと同じになってしまう。これでは出来事を並べるだけでもよい。
作文はそんな感じでなんでもありだから、何かしら主題(主張)を入れてみよ、というのが小論文。…だが目的はガラリと変わる。

小論文には”筋のある主張”が必要

作文に主題(主張)を入れるとどうなるか。作文は出来事がベースだ。作文では、出来事が文章全体にまとまりをもたせるベースになる(ことが多いだろう)。

小論文の場合は文章全体をまとめるのは主題(主張)になる。 だから出来事は主題(主張)のための道具の一つに降格する。例えば、運動会を扱うとする。作文では運動の流れを追っていくだろう。

一方小論文では主題(主張)のために運動会での一場面を取り上げる。また、同じ主題(主張)のために別のイベントを取り上げる。その道具同士がちゃんと繋がっていれば、”筋のある主張”となり小論文の形になるわけだ。

小論文は論文か

論文に近い小論文もあるだろう。…が大抵は小論文の文字数では収まらない。だから論文にはなり得ないだろう。

ところで、今でこそ論文と言えば科学的手法(観測と論理)に基づくもののイメージが強いが、昔はそうでもなかったのかも?と思う。もっと思想的に理論を展開するというものが多く、小論文にはその意味が残っていると考えれば、その名前も納得がいく。

小論文には根拠・客観性が必要といわれるが、データを持ってこいというわけではないのだから、読み手の納得感が得られるのであれば、感情だっていいんじゃないかと。極端な話、感情も根拠になり得るわけで。

小論文はやっぱり作文なのだ

こうして考えるとやっぱり小論文は作文的な側面が強いように思う。論文に近い小論文もあるだろうけど、最も小論文を書かされる中高生に求められているものはそれではないだろう。何より、頭の中だけで持論を作り上げるのは難しすぎる(大人にだって難しい)。適当な経験を取り上げた方が、圧倒的に楽だ。

つまりこうした小論文は事実上、日々の経験をもとに、与えられたテーマで共通の主題(主張)を見つけなさい。という意味なのだ。(そしてこれは持論でなくともよい。問題の提起でも十分だし、経験だってでっち上げでも良いとさえ言われる。)

小論文に必要なのは、経験と共感

面白い作文と同じだ。結局作文のうまさが必要なのだ。作文のうまさは、豊かな経験と表現力(、それから、読む人間への忖度)からくる。出来の良い作文は気持ちがうまく表現されている。この表現力は、小論文の説得力としても必須といっても過言ではないのではないだろうか。文字数的にも、主張に説得力を持たせるには、この方法しかないだろう。

作文が書けないから小論文が書けない

私情を晒すのが最も手っ取り早く評価を得る方法だから、そこで差がつくわけだ。作文にも家庭間格差が出てくる。子どもの作文のために、旅行に行ったり経験をさせるという親もいるだろう。

もちろんそれを理由に経験が増える子どもが増えれば、全体でみれば子どもたちの経験量が底上げされると言うことはあるかもしれないが、それは格差を引き延ばす。どちらかといえば教育というものは格差に対してはネガティブな態度ではないのか?あるいは現実は裏腹ということか。

作り話を書くのも簡単ではない

作り話で済めばなんとかなるかもしれない。テストの小論文は形式が重要だから内容の真偽までは問わない、ということはあるだろう。しかし、作り話も経験の合成なのだ。想像力も似たようなもの。合成する素材、を錬金する方法までは教えてくれない。常々伝聞と経験の説得力の差は異常だと思う。

立場が必要

小論文の範囲では、ろくな考察をするのは無理がある。求められてもいないわけだけど、ではそもそもその行為が中途半端ではないかと感じる。そんな中で、いずれかの立場を取って、極端に言えば、自己中心的に論を展開せよ、というわけ。自由参加ならまだしも、全員に課すにはいろいろとネガティブな理由が多すぎやしないか?

コンテンツとして採点する採点者

小論文は作文の延長だ。そんなわけだから小論文も作文と同様にコンテンツとして評価される。面白い小論文を書け、と。あくまでも形式のみに限定して評価している、というなら結構なことだと思うが、形式の評価に留まっているとは私には思えない。

小論文が測るのは学力ではない

小論文は何を測っているのか。材料が全て与えられているわけではないから、単純な文章力ではない。土台が作文のようなものだから、論理的思考力でもない。小論文が求めているものは身辺調査に近いものを感じる。採点競技のようでもある。そもそも学力外の選別をしたいのか。だったらはじめからそう教えてもらえれば多少はね?

材料を与えれば?

単純に能力をみたいというのであれば、ビデオでも見せてそれについて小論文を書かせれば良いのではないか。登場人物のいずれか一人の立場を選んで書くとか。これなら答えのようなものも見つけやすいし、でっちあげ必要もなくなる。

最後に

私のような人間は、答えのない問題を選びがちで、考えも収束よりは発散していくタイプだから、人がスッキリするようなさっぱりとした文章を書くのは苦手だ。ましてや書くために書くというのは苦痛でしかない。

だが一方で、小論文に見るメリットとしては、無関心な人にどうアプローチするのか、ということがあるということも”今は”理解しているつもりではある。表裏の能力にも見えるが、両立できるなら両立したいところだ。

おわり。

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